巷にあふれるカタカナ語について

さまざまな場面で、私たちはカタカナ語を使う。

 

たとえば、いま私はこのブログをスマホのアプリから書いているし、そのスマホはといえば、iPhoneであって、日本のスマホ業界としては、デファクトスタンダードと言っても差し支えない。シェアも高いし、アプリも便利なものが揃っていて、さらにガジェットまでたくさんある。これは便利である。

、、、

 

といった具合に、気づけばカタカナ語をたくさん使うようになっている。そして、カタカナ語についていけない人たちも一定数いるので、「日本語に直せるものは日本語にしよう」とか「安直にカタカナを使って、煙に巻こうとしてるんだ」といったような批判が巻き上がるわけです。

 

ですが、ちょっとまって欲しい。本当に、そうなのか?

 

そもそも。

いま、たとえば「経済」や「民主主義」といった言葉を、さも当たり前のように使っているけれど、せいぜい明治以降に作られた言葉である。

「経済」は「経世済民」という言葉をもとにしていると言われるが、これはそもそも「漢文」の素養があって初めて、経済という言葉が作られているわけだ。

明治期の先達が偉かったなあ、と思うのは、英語やドイツ語などを学ぶことで、直接海外のさまざまな最先端情報を原語で学びながら、それを日本語、漢語に置き換えていくという、極めて地味な作業を延々やってくれたことだろう、と思う。英語やドイツ語などを学べることそのものが特別なことだったし、知識人の中でもごく限られた人しか解さなかっただろうから、その翻訳作業が必須だったのかもしれない。

 

現代において、残念ながら、漢文が「教養」の座を事実上追われて久しいことを考えれば、むしろ、とくに英語由来の外来語を、「コンサル」や「政府要職」が率先して使っているのは、ある種の「教養の誇示」なのかもしれない。それに、明治期にくらべれば、圧倒的に英語の知識を持つ日本人は増えたので、わざわざ日本語や漢語に変換する手間と労力をかけなくても、まあなんとなく、伝わるようになっているのもあろう。

 

。。。まあ。。。

一般大衆がそれを聞いたらどう感じるか、という「相手の立場にたった効果的なコミュニケーション」ができない人たちでしかない、という悲しい結末が真実のような気もしていますが。