スーパーカブについて

みなさん、スーパーカブというバイクはご存知ですか?

最初の発売から累計1億台生産し、いまだに生産中という化け物みたいな乗り物。

故障もしないし、過積載でもなんのその。

どこまででもいけてしまううえに、ちょっとレトロな見た目も相まって、おしゃれにも乗れてしまう。そんな乗り物がスーパーカブ

 

なにがあれって、すでに最初に発売されてから60年以上たつのに、基本設計に大きな変化がないままここまできていて、きっとこれからもまだまだ当分はこのままいくんだろうな、と思わせるような、そんな乗り物。

 

セグウェイとか、ウィングレットとか、ちょっとした「流行り」もなんのその、人々の足としてつねに使われてるという不思議な存在。

 

この前もちょっと話題にしましたが、空飛ぶ車は、はたしてこういった存在になることができるんでしょうか、ね。

災害報道について

台風9号、10号と通り過ぎて行きました。

残念ながら、土砂崩れに巻き込まれて行方不明になってしまったり、骨折されたり、建物が壊れたり、いろいろ被害も出てしまいました。つくづく、自然災害というのは、人間には如何ともし難いものだなあ、と思います。

 

さて。本題はここから。

災害報道に関しては、なんだかんだ、NHK一択だな、と思うわけです。

NHKの取材力といい、全国放送でも遠慮なく文字放送をしたりして、その一点で、公共放送の矜持を保ってるな、と。

 

NHKに関しては、

1. 放送に関わる技術の最先端を開拓

2.大河ドラマを通して、時代考証や再現、普及

3.Eテレをはじめとする、教育、教養系番組

4.ニュース

 

あたりが、どーにもこーにも、民放が逆立ちしても勝てないと思うのですよ。

こういうのっていずれも、収益性=視聴率を考えたら最初に切り捨てられちゃうのだもの。

 

よく、NHK見ないから番組料支払わない!

という方もいますが、あれはこう、気持ちはわかるけど、なんてもったいないことを!

とも思うわけですよ。

 

ほんと、いい番組多いんですって。

(逆に、がんばって民放に寄せようとしつつしきれないバラエティ系は、すっぱりやめてもいいと思うのに。叱られちゃうやつとか。)

 

そんなこんなで

NHK、私はけっこう好きです。

空飛ぶ車のはなし

空飛ぶ車、が話題です。

 

たしかに、地上の制約にとらわれず、空をまっすぐ飛べば、目的地までかなり早くつけますよね。タケコプターいいなあ。

 

ところで、そんな空飛ぶクルマ。

いまのヘリコプターに比べれば、ドローンの技術の応用で、より安定して、より誰でも操縦できるようになるみたいです。

 

いいことじゃないですか。理想的な世界なら。

 

自動車ですら、プ○○スミサイル、と揶揄されるように、コンビニやビルの一階に、故意か事故かは別として、突っ込むような人がいるわけです。

これ、もし近い将来に、さらにたくさんの空飛ぶ車が実現した世界にあって、ビルの真ん中ら辺に突っ込むような人がでてきたら、どうなるんでしょ。

そこら辺は、センサー類もりもりで防ぐのかな。

 

サイバーテロで、空飛んでる車が一斉に乗っ取られたら?

故障したときのリスクは、地上を走るクルマより何倍も増えるけどそれはいいの?

 

もちろん、僻地や山岳地帯の物流、あるいは土砂崩れで道路が寸断されたときの緊急手段として、空を食べる手段があるのは素敵でしょう。

ただ、それってたとえば

ヘリコプターじゃだめなの?となるわけです。

垂直離着陸できるんだし。

 

もし、ヘリコプターメーカーが、その本気を出して、空飛ぶクルマに乗り出してきたら、強いかもしれませんね。

 

すくなとも、あの空飛ぶクルマは、

この先テストを重ねるうちに、開発者たちのなかから、数名は死人がでてしまう気がしてしょうがないのです。。。

意識高い系のはなし

さまざまなことに感度を上げ、発信し、「世界を変える!」みたいなことを純粋に発信しているように見える人たちを、しばしば「意識高い系」として揶揄するような空気すらあると思う。

 

本人たちがどう思っていようと、あるいはどう発信していようと、それが彼らの信じた道ややり方である限りにおいて、それはもう、好きにしたらいいと思う。

そして、そうやって、自分自身に負荷をかけて、精一杯背伸びして、あるいは泥臭くがんばって結果を出している人たちのことは、ほんとうにすごいと思う。尊敬する。

わたしにはできないけれど。

 

わたし自身は、それなりの大企業に就職し、それなりの仕事をして、それなりのお給料をいただいている。

もちろん、それなりには世の中の役に立つような仕事をしている自負はあるし、後ろめたいことをしているわけでもない。

いまのご時世としては、かなり恵まれている。

 

会社入って五年目くらいに、いろいろあって心を病んで、休職にはぎりぎりならなかったけどしんどい思いをし。

そこで助けてもらったパートナーと、結婚もし、いまは安定した生活に戻った。

 

こんな経験をしてくると、

正直、世界を変えるとか、あるいは世の中に影響のあるプロダクトを作る、なんていう高い次元の欲求より前に、精神的な安定や、あるいは家族との平穏な日々を求めたくなってしまう。

 

意識高い系の人たちから見たら、きっと、目標も低く、つまらない人生設計なのかもしれない。

ガイアの夜明け」で、若くして成功した経営者が出てきたりすると、ついつい目を逸らしちゃうのも、そこには、どこかでそういう世界を諦めきれない自分がいるのかもしれない。

 

それでも、じゃあ、もう一度自分に大きく負荷をかけてまで、そういう世界に身をおきたいか、と言われたら、ノーサンキューなのである。

 

平穏で、ちょっとつま先立ちするくらいの意識の高さで、暮らしていけたらいいな。

巷にあふれるカタカナ語について

さまざまな場面で、私たちはカタカナ語を使う。

 

たとえば、いま私はこのブログをスマホのアプリから書いているし、そのスマホはといえば、iPhoneであって、日本のスマホ業界としては、デファクトスタンダードと言っても差し支えない。シェアも高いし、アプリも便利なものが揃っていて、さらにガジェットまでたくさんある。これは便利である。

、、、

 

といった具合に、気づけばカタカナ語をたくさん使うようになっている。そして、カタカナ語についていけない人たちも一定数いるので、「日本語に直せるものは日本語にしよう」とか「安直にカタカナを使って、煙に巻こうとしてるんだ」といったような批判が巻き上がるわけです。

 

ですが、ちょっとまって欲しい。本当に、そうなのか?

 

そもそも。

いま、たとえば「経済」や「民主主義」といった言葉を、さも当たり前のように使っているけれど、せいぜい明治以降に作られた言葉である。

「経済」は「経世済民」という言葉をもとにしていると言われるが、これはそもそも「漢文」の素養があって初めて、経済という言葉が作られているわけだ。

明治期の先達が偉かったなあ、と思うのは、英語やドイツ語などを学ぶことで、直接海外のさまざまな最先端情報を原語で学びながら、それを日本語、漢語に置き換えていくという、極めて地味な作業を延々やってくれたことだろう、と思う。英語やドイツ語などを学べることそのものが特別なことだったし、知識人の中でもごく限られた人しか解さなかっただろうから、その翻訳作業が必須だったのかもしれない。

 

現代において、残念ながら、漢文が「教養」の座を事実上追われて久しいことを考えれば、むしろ、とくに英語由来の外来語を、「コンサル」や「政府要職」が率先して使っているのは、ある種の「教養の誇示」なのかもしれない。それに、明治期にくらべれば、圧倒的に英語の知識を持つ日本人は増えたので、わざわざ日本語や漢語に変換する手間と労力をかけなくても、まあなんとなく、伝わるようになっているのもあろう。

 

。。。まあ。。。

一般大衆がそれを聞いたらどう感じるか、という「相手の立場にたった効果的なコミュニケーション」ができない人たちでしかない、という悲しい結末が真実のような気もしていますが。

はじめに

Hodai ブログ開設です。

このブログは、私がふだん思っていることや感じていること、いろんなしがらみで言いたくても言えないことなどを、「書きたい放題」書こうと思っています。

とても、とりとめなくなると思いますが、お付き合いいただけますと幸いです。